ラテン・アメリカ政経学会

コラム

ラテンアメリカ独立200周年 −日本・ラテンアメリカ近代外交の遺産

今井圭子

 2010年はラテンアメリカ独立200周年に当たり、各地で盛大な記念行事が催された。2世紀前独立を宣言し、熾烈な戦争を経て植民地支配から脱したラテンアメリカの国々は、その後も相次ぐ欧米諸列強の侵略に抗しながら、独立国家としての新たな国づくりに踏み出した。こうしたラテンアメリカ諸国の挑戦には、19世紀半ば不平等条約によって開国を迫られ、その条約改正のため、総力を結集して国力増強に挑んだ近代日本のそれとあい通じる側面がみうけられる。そしてその間日本はラテンアメリカ諸国と国交を樹立し、国家の難局に際してはしばしば時宜を得た協力関係を享受してきた。しかし残念ながらこのことについてはこれまで日本で広く報じられてこなかったため、一般にはほとんど知られていないというのが実情である。そこで小稿では以下、独立200周年を機に日本とラテンアメリカの近代外交の歩みを振り返り、その歴史的意味について考えてみたい。

 近代日本の国家建設をめざす明治維新政府にとって最大の外交問題となったのは、欧米主要国との不平等条約改正であったが、日本にとって最初の平等条約となったのは、1888年メキシコとの間で締結された日墨通商友好条約であり、それは独立後米国やフランスの侵略に苦しんできたメキシコにとっても重要な条約であった。日本はこの条約締結を機に1895年ブラジル、97年チリ、98年アルゼンチンと平等条約を締結し、20世紀に入っても相次いでラテンアメリカ諸国と対等な国交関係を樹立していった。こうしたラテンアメリカ諸国との平等条約締結が、日本の欧米諸国に対する不平等条約改正交渉にどの程度の影響を及ぼしたのか、この課題に関する本格的な研究が待たれるが、いずれにせよそれは不平等条約改正へのひとつの布石となったことは否めない。

 不平等条約改正のため日本政府は殖産興業、富国強兵による国力増強を図り、その過程で日清、日露戦争に突入することになったが、両戦争において国交樹立後間もないラテンアメリカの国々と軍艦の譲渡をめぐる外交交渉がもたれることになった。そして交渉の結果、日清戦争に際してはチリから、また日露戦争に関してはアルゼンチンからの軍艦購入に成功した。とくに後者については、ロシアが先にアルゼンチンに対して交渉を進めていたが、購入代金の支払をめぐり交渉が難航していたところ、英国の斡旋を受けた日本がアルゼンチン政府に対して即時決済を約束し、電光石火、わずか2日間の交渉で2隻の巡洋艦譲渡をかちとったのである。さらにアルゼンチン政府はマヌエル・ドメック・ガルシア海軍大佐を日露戦争の観戦武官として日本に派遣し、同大佐は大著『日露戦争における海戦報告書』を執筆、その一部は邦訳され『日本海海戦 アルゼンチン観戦武官の記録』(津島勝二訳、日本アルゼンチン協会、1998年)として出版されている。大佐はその後海軍総司令官、海軍大臣を歴任、同国海軍の発展に多大な功績を残され、またアルゼンチン日本協会会長としても両国の親善に大きく貢献された。

 日露戦争は小国日本が大国ロシアに挑むというまさに国家存亡の危機に直面した戦争であり、短期決戦で勝利するための手立てとして、明治政府は欧米主要国に対して日本に有利な講和斡旋を導き出す外交活動を展開した。さらに世界の国々の世論を味方につけるべく、在外日本公館をとおして大々的なマスコミ戦略を繰り広げたのであった。そして昨年この点に関する興味深い研究書、松村正義著『日露戦争と日本在外公館の“外国新聞操縦”』(成分社、2010年)が出版された。元外交官である著者は、外交文書、新聞など膨大な資料を丹念に読み込み、日露戦争当時の在外日本公館による広報活動を総合的に描き出している。同書で扱われているのは欧州、米州、アジア、大洋州に及ぶ54の在外日本公館で、ラテンアメリカについてはブラジル、アルゼンチン、ペルー3カ国が対象となっている。同書によれば、日本政府は「政治的・軍事的・経済的な面以外にも宗教的・社会的・文化的な分野で黄禍論の再発を押さえ込」み、「ひたすら自国の独立と安全のために」、北方から侵略してくる「ロシアに対して万止むを得ず戦うだけである」(同書、10―11頁)と広報し、親日的な国際世論の醸成に努めたとされている。ところでこの戦略は功を奏し、ラテンアメリカ諸国においても親日的な世論形成に貢献した。かつて筆者はアルゼンチンの主要新聞を対象に日本報道に関する研究(今井圭子『アルゼンチンの主要紙にみる日本認識』上智大学イベロアメリカ研究所、2006年)をまとめたが、日露戦争当時の新聞報道は、戦況報道に加えて、日本の富国強兵策、戦時財政に関する記事と親日的論説にかなりの紙面が割かれ、それは今日の対日イメージ、親日的国民感情に相通ずる内容のものが多かった。

 また19世紀末以降においてはラテンアメリカに向けて本格的な移住が開始され、1899年ペルー、1908年にはブラジルへの集団移民が送り出された。他方ヨーロッパ移民を奨励するアルゼンチンに対しては、すでに1886年、自由渡航者として初めての日本人が移住した。日本移民の増加に伴い北米で排日的気運が高まるなか、こうしてラテンアメリカが日本移民にとっての新たな移住先となっていったのである。ところで1900年当時の1人当たりGDPは、日本の1167ドルに対して米国4091ドル、アルゼンチン2918ドル、メキシコ1366ドル、ペルー817ドル、ブラジル724ドルと推計されている[Orlando J. Ferreres dir., Dos siglos de economía argentina (1810-2004), Norte y Sur, Buenos Aires, 2005]。これによると、米国が日本の3.5倍の水準にあったのに対して、ラテンアメリカにおける日本移民の主たる受入国となったブラジル、ペルーは日本より低い水準にあり、北米移住と南米移住の経済格差はこれほどまでに大きかったわけである。それに対してアルゼンチンの場合は日本の2.5倍で、白人移民が奨励されたとはいえ、日本移民もこの高い生活水準の恩恵に浴することができたのである。

 こうしてラテンアメリカへの日本移民は増加の一途を辿り、1920年代以降においては北米移民の数を凌駕し、農業、商業を中心にそれぞれの生活基盤を築いていった。しかし日米開戦によりラテンアメリカ諸国は次々に日本との国交を断絶し、対日宣戦布告に踏み切っていった。そうしたなかにあってアルゼンチンは米、英両国の圧力に抗して可能な限り中立外交を貫こうとし、枢軸国に対して宣戦布告したのは終戦間近い1945年3月になってからであった。連合国の一員として終戦を迎えたラテンアメリカ諸国は、日本の戦後復興を願って支援の手を差し伸べ、また逸早く日本の国連加盟を提案して国際社会への復帰を促した。そしてサンフランシスコ条約締結により米国の占領を解かれた日本は、1952年アマゾンに向けて戦後初の移民を送り出し、54年にはパラグアイ、55年にはアルゼンチン、ボリビアへの移住を再開した。

 ラテンアメリカには1世紀を超える日本との交流をとおして、きわめて親日的、友好的な国民感情が根づいており、また今日世界で最多の日本移民・日系人が在住している。そして日系社会は堅実に経済基盤を築き、政治の分野にも進出して大統領、地方政府の長、国会および地方議会議員、外交官などを輩出してきた。またその子孫のなかには就業、勉学のため来日し、日本に長期滞在、永住する人々も増えている。これらの人材は得がたい歴史の遺産であり、日本とラテンアメリカのより良き交流の架け橋として、その力量が十二分に活用されることが切望される。

(いまい・けいこ/上智大学名誉教授)